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スタッフだより

科学館で働くスタッフを紹介します

科学館ってどんなところ? どんな人たちが働いているの? などなど、いろいろな角度から大阪市立科学館をご紹介します。

第132回 大阪市立科学館と大阪大学

2019年1月5日

今回のスタッフだよりは、大阪市立科学館と大阪大学について、江越学芸員に話を聞きました。

大阪市立科学館と大阪大学にどのような関係があるのでしょうか。

大阪市立科学館は、かつて大阪大学理学部があった場所に建っています。
大阪大学は1931(昭和6)年、わが国6番目の帝国大学として創設された大学です。理学部はこの際に新設の学部として設立されました。科学館の西側には、この地に大阪大学理学部があったことを示す記念碑が建てられています。
中之島の理学部は1961(昭和36)年、第2室戸台風の高潮による甚大な被害を受けたため、1966(昭和41)年に現在の豊中市に移転しました。その理学部があった場所に、今の大阪市立科学館が建てられたのです。







大阪大学はどんな大学だったのでしょうか。

大阪大学の源流は江戸時代に緒方洪庵が創設した適塾に遡ります。大阪帝国大学はその適塾の自由な学問的気風を受け継いだ大学でした。
特に新設の理学部は活気にあふれ、新進気鋭の諸先生方が集まりました。初代総長は土星型の原子模型を提案したことで知られる物理学者の長岡半太郎でした。初代理学部長は、漆の主成分・ウルシオールを合成した眞島利行、初代物理学教室主任は八木アンテナを発明した八木秀次でした。
当時、世界では原子の世界を研究する新しい物理学が急速に発展していました。古い権威にとらわれず、最先端の研究ができたのは、新設の大阪帝国大学と、仁科芳雄が率いる理化学研究所だけだったと言われています。


当時どのような研究が行われていたのでしょうか。

設立直後の1933(昭和8)年、理化学研究所から菊池正士が招かれ原子核実験を開始します。菊池は1928(昭和3)年、電子が波としてふるまうことがあるという電子線回折の実験を成功させ、世界的に名を知られた研究者でした。
菊池は大阪帝国大学にて、原子核実験装置コッククロフト・ウォルトン型加速器の建設を開始します。その前年の1932(昭和7)年に世界の原子物理学の分野では、加速器を用いて人工的に原子核を破壊する実験に成功したばかりでした。その時に使われたのがコッククロフト・ウォルトン型加速器でした。
大阪帝国大学ではこの加速器を用いて、当時発見されたばかりの中性子の関係する原子核構造の研究などが行われました。


湯川秀樹もここで研究していたということですが。

湯川秀樹は当時京都帝国大学の講師でしたが、1933(昭和8)年に大阪帝国大学講師を兼担、翌1934(昭和9)年には大阪帝国大学専任講師となり、菊池正士の原子核グループに参加します。
湯川秀樹が中間子の存在を予想したのは、大阪帝国大学で研究を行っていた1934(昭和9)年のことでした。中間子は当時まだ未発見の粒子で、その存在を予想するのは大胆な仮説でした。大阪の自由闊達にあふれ、古い権威にとらわれない風土があったことも、研究を進める土台になったと思われます。
その後、湯川が予想した中間子が実際に宇宙線の中に発見されたことで、1949(昭和24)年、日本人で初めてノーベル賞を受賞することになります。





そのほかにどんな研究者がおられたのでしょうか。

菊池研究室には助教授として、のちに大阪市立大学の学長をつとめることになる渡瀬譲が活躍していました。渡瀬は日本の宇宙線研究を国際的なレベルに引き上げたことで知られています。
さらに渡瀬研究室からは、日本のX線天文学の草分けである小田稔や、原子核実験で広く使われる放電箱を発明した福井崇時、宮本重徳といった研究者が続きます。
科学館の展示物の中には、こうした大阪大学での研究に関係する資料もあります。



最後にひとこと

江越 航学芸員

科学館は大阪大学とさらに連携を強めており、大阪大学社学共創本部と共同で大阪市理科系博物館連携クラスターというものを立ち上げています。
これは科学館等の理科系博物館と大阪大学が共創し、理科啓発事業と理系人材育成の展開を目指そうという組織です。新しくオープンする展示場では、大阪大学の最先端の研究を紹介するコーナーも設ける予定になっていますので、ご期待ください。



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